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主イエシュアの言葉にのみ救いはある。

 現在の新約聖書には、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書の他に、パウロによる書簡類が数多く収められています。これは偏に、キリスト教正統派の成立にパウロが大きな影響を及ぼしているからに他なりません。

 「使徒言行録」にあるように、パウロは元々ユダヤ教ナザレ派を迫害する側の人間でした。彼はファリサイ派のラビ(ユダヤ教の教師)ガマリエルから律法を学んだ熱心なファリサイ派のユダヤ教信徒でしたので、ダマスコでの回心に至るまでは主イエシュアをメシアと認めていなかったのです。ファリサイ派であるパウロは、新興勢力であるユダヤ教ナザレ派を異端と見なして取り締まっていました。そう、ダマスコで主イエシュアの幻(御霊)に出会うまでは…。

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」(使徒言行録9:4)ダマスコにユダヤ教ナザレ派の信徒を取り締まる為にやって来たパウロに、主イエシュアの御霊が現れます。「主よ、あなたはどなたですか。」(使徒言行録9:5)パウロの問いに主イエシュアの御霊は答えます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(使徒言行録9:5-6)主イエシュアによって目を見えなくされたパウロは、ダマスコの街に入った後、当地のユダヤ教ナザレ派信徒であるアナニアによって再び目が見えるようにしてもらったのです。この奇跡はそれまで迫害する側であったパウロを、一転、主イエシュアの弟子にしてしまいます。

 パウロはタルソス生まれのユダヤ人でしたが、両親がローマの市民権を得ていた為、彼は生まれながらのローマ市民でした。又、ユダヤ教のファリサイ派でしたから律法にも造詣が深く、メシアの到来と復活を信じていました。主イエシュアによって何故パウロが選ばれたのか、それは説明するまでもありません。彼が、異邦人に主イエシュアの教えを広めるのに最適な人物だったからです。主イエシュアは”目からウロコ”の奇跡によってパウロを回心させたのです。

 回心後ダマスコを追われたパウロは、数年間アラビアへ逃避します。そしてその後再びダマスコからエルサレムに戻り、バルナバの仲介で主の弟ヤコブに会い、ダマスコでの回心の結果主イエシュアの弟子となった事を了承してもらいます。この時、しばらくエルサレム共同体に滞在したパウロは、信徒達から主イエシュアについて多くの事を聞き学んだことでしょう。何故なら、彼は生前の主イエシュアについてほとんど何も知らなかったからです。この後パウロは本格的な福音宣教の旅に出る事になりますが、ダマスコでの回心の際、主イエシュアが彼に与えた使命は異邦人への福音宣教だったにも関わらず、まず彼の故郷のタルソスへ行く事を共同体から命じられます。「まずユダヤ人から。その後、異邦人へ。」と言う共同体の方針にしぶしぶ従ったパウロは、故郷に戻りそこで10年弱もの間福音宣教を続けます。そしてその後エルサレムに戻ったパウロは、ようやく本格的な異邦人への福音宣教の旅に向かう事となるのです。まずキプロスへ、そして小アジアやギリシャへ、パウロの福音宣教の旅は続きます。

 パウロは主エシュアの直弟子たちとは違い、当時豊かな教養を身につけていました。ユダヤ教の律法にも詳しかったですから、彼の説く教えには大きな説得力があったと思われます。パウロ独自の教えは、律法軽視であると度々エルサレム教会から抗議を受け、遂にはユダヤ人教会と異邦人教会との反発をも生みました。そして、結果、エルサレム会議において、ユダヤ人と異邦人それぞれの管轄地域を分けて福音宣教をすると言う結論に至った訳です。

 さて、パウロが異邦人に説き広めた教えとは一体どんなものだったのでしょう。一つ確かな事は、パウロの教えの下地にはファリサイ派の教義があったと言う事です。主イエシュアは元々洗礼者ヨハネの集団に属していたと思われます。この集団は元々ファリサイ派から分かれたエッセネ派に属しており、基本的な教義はファリサイ派と同じと考えられます。ただエッセネ派は、民衆の中に広く入り込んだファリサイ派と違って、街から離れ閉鎖的な集団を作って信仰の純粋さを保とうとしたのです。主イエシュアは結局洗礼者ヨハネの集団を離れ、新たな福音宣教の旅に出た訳ですから、その教えはエッセネ派とは少し違いました。彼は神の愛を説き、社会的な弱者の救済に重きを置いたのです。ファリサイ派、エッセネ派、ナザレ派、それぞれ共通する下地を持ちながらも、信仰の実践面や重点箇所など細かい部分で異なっていたと考えられます。要は、パウロの説いた教義は主イエシュアの説いたものとは似て非なるものではないか、と言う事なのです。

 現在の正統派教会の教えは、影でパウロ教と揶揄されるほど彼の影響を強く受けています。私はパウロの教えを完全否定するものではありませんが、「キリストの死による贖罪論」など史実から飛躍し過ぎた考えがまかり通るのは如何なものでしょうか。私にはどうしても”主イエシュアが我々人間の罪を背負い、我々の代わりに死んで下さった。”とは考えられません。ましてや、主イエシュアの死によって我々人間の罪が贖われ救われたなどと、そんな荒唐無稽な考えには賛同しかねます。

 私たちは、パウロなど後世の弟子が打ち立てた教義ではなく、主イエシュアが自ら語った教えにのみ従うべきです。主イエシュアが語られた”神の言葉”を直に解釈し、そこから真理を見出すべきです。ですから、私たちはあらゆる福音書から主の御言葉を精査し拾い集め、真の教えに出会えるよう努めます。いわゆるグノーシス派の福音書群も、真正なる主の御言葉がそこから拾い集められるならば、異端の書ではなく外典として認め、真理を理解する為の一助と致します。