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聖母マリアの信仰を忘れない…

 新約聖書の中でマリアの受胎告知にまつわる話が記されているのはルカ福音書だけです。ですから、聖書学者の間ではその信憑性について疑問視する者も多いと聞きます。しかし、この”マリアの処女懐胎”を疑ってしまうと、キリスト教自体の土台が音を立てて崩れ去ってしまう事になるのです。それは言わずもがな、この疑いが、主イエシュアが神の子である事を否定する事につながるからです。

 神から遣わされた天使ガブリエルは、ナザレにいるヨセフのいいなずけであるマリアのもとに現れます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)天使の言葉にマリアは戸惑います。一体この挨拶は何の事だろう。すると天使は続けてマリアに告げます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエス(イエシュア)と名付けなさい。」(ルカ1:30-31)マリアは当然この事に驚き戸惑います。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)マリアがそう天使に言うと、天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1:35)若きマリアがこの事にどれほど驚き不安に思ったか、あなたは分かりますか。結婚前の処女の身でありながら、ヨセフへの貞節を守らねばならない身でありながら、子を宿してしまう。きっと周りからひどく非難され、婚約も破棄されてしまうに違いない。でもマリアは神に従います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)神は突然、何の前触れもなく人をお選びになられます。真に信仰に厚い人間を知っておられるからです。

 マリアが聖母と呼ばれる所以がここにあります。聖母マリアは神に選ばれた者であり、主イエシュアの母であり、そして主イエシュアの福音宣教の旅を陰で支えたお方です。主イエシュアの十字架刑の死を最後まで見守り、主イエシュアを墓に葬り、その三日後、主イエシュアの復活に立ち会われたお方です。主イエシュアが天に昇った後、使徒らと共に初代エルサレム共同体を築き上げ、その信仰を守り、現在のキリスト教の礎を築かれたお方です。なのに何故、プロテスタント諸派は、”聖書にマリアを崇敬するよう書かれていないから”と言って、聖母マリアを軽んじるのでしょう。宗教改革によって誕生したプロテスタント各派は、カトリックの過剰なまでのマリア崇敬を批判してやみません。確かに、カトリックのマリア崇敬には幾分行き過ぎた所があります。一説では、カトリックが男性中心で女性を軽視している事から、女性信徒を引き留める為にマリア崇敬を肥大化させたとも言われています。

 しかし、考えても見て下さい。たとえルカ福音書の記述に信憑性がないとしても、マリアが主イエシュアの母であり、その良き導き手であった事は否定できない事実なのです。カナでの婚礼の際も、「わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)と言う主イエシュアをたしなめ、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」(ヨハネ2:5)と言って、主イエシュアが奇跡を行う事を促します。当然、主イエシュアがまだ子供であった頃も、彼に神の子である事をしっかりと認識させるよう教育したはずです。

 わたしたちはプロテスタントのような過剰なまでの聖書至上主義は持ちません。飽くまでも、史実としてのマリアの人間像を尊び、その功績を称えます。そしてマリアの身に起こった神の御業を信じ、主イエシュアの神の子としての神性を認めます。聖母マリアは神の子を宿した、神に選ばれた尊いお方です。