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木や石造りの建物に神が降ると言うのか…

 現在の一般にキリスト教と呼ばれる宗教組織は、須らく信仰の拠り所としての教会と言う建物を持っています。確かに毎週信徒が一同に会して神への礼拝をあげるには、それ相応の集会場所が必要であるとは思います。しかし、ローマ・カトリックやモルモン教のように、教会や神殿と言った建物に霊性を持たせ神聖化するのは少し考え物です。これは偶像崇拝を禁じたモーセの掟に抵触する可能性があるのではないかと思われるからです。

 何物であろうと、神に通じる物を立ててはいけない。何故なら神は霊的存在であり、決して物質などから成るものではないからです。この点プロテスタント諸派は、教会を信徒達が集う為の場所・建物に過ぎないとしていますが、ローマ・カトリックは教会を神聖なものとし、教会はキリストの体であるとさえ言っています。又、モルモン教はユダヤ教張りに豪華で壮大な神殿を建設し、正式な信徒でないと入場さえできない神聖で特別な場所としています。

 主イエシュアはエルサレムに上った際、神殿で神に祈りを捧げ、人々に説教を行いました。地方に赴いた時もユダヤ教の会堂で説教をされました。主イエシュアは決して神殿を軽んじるような事はしていません。しかし、サマリアを訪れた際、主イエシュアはサマリアの女に「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)と述べています。これは一体どういう意味なのでしょう。主イエシュアは、神を礼拝する際大切なのは、神に真摯に向き合う姿勢・心の有り様だと言っているのではないでしょうか。エルサレムの神殿でサドカイ派の祭司達が行っていたような、形式的で動物の生贄を伴う礼拝よりも、我々一人ひとりが霊と真理をもって真摯に神に祈りを捧げる事の方が大切なのだと言っていると思われます。

 木や石造りの建物に神の権威を持たせてはいけません。神の聖霊はそのようなものの中には留まらないからです。神は直接私たち一人ひとりに語りかけてくれます。神の目に義とされた者の上に、直接神の聖霊は降り注がれます。聖母マリアに聖霊が降ったように、そして主イエシュアが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた際に、その頭上に神の聖霊が降り注いだように。…ルカ福音書にも「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」(ルカ3:22)とあります。