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ただ祈るだけでは、決して救われない…

 仏教の発展の歴史を見ても分かるように、宗教とは多かれ少なかれ、長い年月の流れの中でその教義が拡大解釈されたり歪められたりするものです。小乗仏教から大乗仏教へと発展した仏教の教えは、もはや開祖である仏陀の教えから大きくかけ離れたものになっています。ただ念仏を唱えさえすれば人間は救われるなどと言う教えが、まかり通るような世に真の救いがあると言えるでしょうか。

 キリスト教もしかりです。信徒一人ひとりが神に向かい合い、直接神と対話して真理について教えを請い、生命の神秘を悟る事が出来なければ、本当の救いは存在しないのです。カトリックのように司祭や司教と言った専門職の者だけが神と対話できると考えるのは、全く浅はかな事です。一般信徒は司祭や司教の指導を受けなければならないと考える事自体ナンセンスです。私たちは主イエシュアの教えを通して神と直に向き合い、神の真理に出会えるよう努めなくてはいけません。

 トマスの福音書に「神の国はあなたがたの中にある。そして、外にもある。あなたがたは、自分自身を知るならば、知られるであろう。そして、自分が生ける父の子らであることを知るであろう。」と言う主イエシュアの言葉があります。この「自分自身を知るならば、知られるであろう。」と言う事象は、仏教で言う所の「悟り」に近いものです。私たちは自分自身が一体何者で、何故今ここに存在するのかを知らなければなりません。己の存在理由を理解せずにイタズラに命を削って日々を過ごすのは、実に空しくはかないことです。

 初期キリスト教の時代、正統派教会が躍起になって潰しにかかった所謂グノーシス派の教えは、我々が真に追い求めなければならない真実の教えです。聖書の中にある主イエシュアの教えに従い、真摯に神に向かい合い、神を求め、神を愛し、神に己を委ねてこそ、真の救いへと至る事ができるのです。